お風呂場に蜘蛛が出た
重たい身体を半ば引き摺って、ようやく湯を浴びた時のこと。
1センチを超えるであろう大きさの一匹の蜘蛛がいた。それは私の体を跳ねる多量の湯を避け悠々と歩いている。
「……」
特に驚きも畏怖もせず、数秒の間無言でそれを見つめた後、私は静かにシャワーヘッドを自身からそれへと向けた。温かいスコールは軽い体を押し、八本の脚を丸め込み、私の足元を通り過ぎて排水溝へと流れていった。
別に蜘蛛が嫌いという訳ではなかった。好きでもないということには違いないが他の虫等と比べるとまだ耐性がある方ではあり、デザインとしてなら格好良さを感じることもあるくらいだ。
唯それ以上に、私ひとりが契約し住んでいるこの家の中に私以外の生命体が許可なく存在していることに嫌悪した。その嫌悪が冷淡な殺意へと変わり灯火を濡らしたまでである。
「夜蜘蛛は殺して良くて、朝蜘蛛は殺しちゃいけない」なんて言葉を真に受けて律儀に守っていた幼少期の記憶をぼんやりと思い出した。確か夜蜘蛛は泥棒で、朝蜘蛛は神の遣いだか何だかだったっけ。
現在の時刻を思い出す。今は夕方だ。はて、一体どちら側なんだろうか。──まあ、今の私にとってそんなこと、どうだって良いことなのだけど。
チラリと排水溝へ視線を動かす。掃除を楽にする為のネットにそれは引っ掛かっていた。
数秒程お湯をかけ、もう良いかとシャワーヘッドを自身の方へと戻したのも束の間、それは脚を開き何事もなかったかのように歩き始めた。
「……」
再び湯をかける。離す。するとそれは脚を開き歩き始める。この湯はそれに対して何の有効打にもなっていなかった。
これには流石と思わざるを得なかった。同時にそれが本来生息しているであろう場所を思い浮かべた。
森の中、ビルとビルの隙間等。どれも雨は避けられないだろう。そんな中で今まで生きてきたこの種が今更こんなスコールで殺られるわけがない。そもそもお風呂場にいた以上、水等全く効かぬと言ってるようなものではないかとすら思えてきた。
それならばと私は風呂洗い専用の洗剤へと手を伸ばした。それが排水溝の傍から離れぬうちに素早く手に取り、何度も吹きかけた。
しゅ、しゅ、しゅ、しゅ。
あっという間にそれは真っ白い泡に覆われた。けれどもその隙間を裂くようにして逃れようとする。逃げる場なんて何処にもないのに、それは抵抗を続ける。
しゅ、しゅ、しゅ、しゅ。
躊躇いなく追い討ちをかけ、やがて黒い体は完全に見えなくなった。
やっと終わったか、と目の前の生命の終わりに私は安堵する。どこでどのように連想していったのか、頭の中では人間の処理方法が浮かんでいた。──ネットによると処理したい肉を塩酸系の薬剤で満たした浴槽に浸しておくと溶けてトイレに流せるようになるらしい。
そんな不確かな浅知恵を思い浮かべていると浴室で淡々と処理をする自分の姿がチラついた。
身に覚えのない映像だった。きっといつぞやに観た映画やドラマのシーンに自分の重ね合わせているのだろう。そうすぐに考えを完結させて一切を頭から追い出した。
もう一度排水溝へと視線を向ける。それの骸は二度と動きそうになかった。湯を止めて風呂場へ出る間も、動き出すことはなかった。この後私は死骸を処理して、存在の抹消に満足し忘れるのだろう。
だから覚えている今のうちに祈っておこう。
──嗚呼どうか、それが人間へと変わりませんように。