悟ったような面するブログ

無い脳味噌と知識で垂れ流している。

ソイツが檻の中に入っているとは限らない

インターネットでよく使われ、そして同時に呼称に問題性があると指摘される存在、「キチガイ」。
ある時にはインターネット上の顔も知らぬ人の前に現れ、またある時には現実世界の自身の目の前に現れては到底理解出来ないような言動で周囲に困惑と害を撒き散らす存在としてよく扱われている。

今回はその「キチガイ」を対象としてではなく、「キチガイを利用している奴等」の話をしようと思う。

※今回は自身の理解が及ばない相手全てに対してキチガイと括ろうとする者の話をするので便宜上キチガイという呼称のままでいきます。


迷惑をかけられている側とすれば溜まったもんじゃないが、それが自分と全く関係がないとわかれば他人事となり、中にはつい野次馬と化してしまうのが人の性である。現にキチガイと遭遇したという被害の話を面白半分にしか聞いてないという者が一定数いるのが事実だ。


きっと奴等はキチガイが檻の中に閉じ込められていると無意識に思っているのだろう。
檻の中とはすなわち画面の向こう側や別世界の類いであり、自分に関与するのが不可能な隔離空間のことだ。
キチガイは動物園のライオン、そして自分はそれ
を見て楽しむ観光客とでも形容するのが妥当だろうか。

ライオンを檻の外で見ている人と同じ檻の中で見ている人とでは例え距離が同じでもやっぱり感じ方は違うもの。

何せ檻の外では恐ろしい牙も爪も届かないのだ。今いる場所が完全な安全圏だと思っていることだろう。

反対に同じ檻にいる人(被害に遭った者、キチガイと近しい関係の者、キチガイと似た境遇の者)は例えどんなに距離を置いたところでいつ食い殺されるかわかったものじゃない。
下手すればウイルス感染の様に全く同じキチガイと化すことだって有り得るのだ。

中にいる人は被害に遭わないよう、そして自分まで加害者側にならないようにと警戒を怠らず藻掻き続ける。
しかし外にいる人は他人事と思ってるから面白がってばかりで本人の気付かぬうちに同等のキチガイになってることもある。

何故ならば、檻という概念など始めから存在しないからだ。

例え画面の向こう側や住んでる国とは違う国の話だったとしても、同じ人間という種族である以上、自分がキチガイとは全く関係がなく被害に遭うこともないという確証はない。
今いるところが安全圏でない根拠はないが同時に安全圏である根拠もないのだ。

そうである以上、キチガイを「キチガイ」と呼称し理解もせずにただ拒絶するのはお門違いな対応と言える。
理想の対応はどんなに理解不能な存在だったとしても二度とそんな存在を生み出さないよう原因を追求し解明ことである。
しかし、その道の専門家でもない我々に理想の対応は出来ない。それならば我々なりに理解と近い対応をするしかない。

被害が及ばないよう安全な場所まで離れるのは懸命だ。しかしだからと言って今いる場所が安全圏だと油断するのは危ない。
他人事になり内心面白がるのは勝手だが、常に自分や周りがそうなるかも知れないという可能性を危惧し気を付ける。
そして、いくら理解が出来ない存在だからといって一概に差別化し拒絶するのはかなり危ない行動だということを忘れない。
そういった姿勢を保つことが大切なのだろう。


昔からニュースやSNS上では毎日と言っても差し支えない程の頻度でキチガイが現れ、その存在を嘲笑い排除を望む声をあげる者が現れる。

被害に対する復讐、正義感に燃えてなどの理由を添えられてしまえば許容したくなる気もしなくはない。
しかし、それでも少し冷静になってほしい。

そして法律や法的機関があるということを思い出してほしい。
何の為にそれ等が存在しているかということも、だ。

確かに今の法律や法的機関では力不足だったりするところがあるかも知れない。かくいう私も警察に関しては全く信用していない。
かと言って私達には私刑を行なって良い権利も無ければ手段もないのだ。
(逆を言えば私達に権利も手段もないから法律や法的機関があるのである)

ならば私達はキチガイに罰を与えることなんてしなくて良い。考えなくて良いのだ。
真に私達がやるべき事。それは上記のように私達なりにも考え理解し、同じ罪を生み出さないようにすることだ。

例え環境などの個人じゃどうしようもないことが原因であったとしても、1人でも多くの人間が変えようと意識すれば変えることが出来る。
孤独が原因であるのなら皆で寄り添い支え合えば問題は解決される。

そうすれば、いつかきっとキチガイという存在もそんな呼称も無くなることだろう。







……なんて綺麗事を考えていた。

普通に考えて、まず無理なことだ。

こんな私でさえも思いつくようなことにも思いつかない人間ばかりか、思いついていながらわざとそうしない人間が多くいるのだから。


勿論、綺麗事を述べるだけではなく実行に移すような凄い人もいる。
しかしそれはほんの一握りだ。

何せ、通常なら理解不能な存在に嫌悪し、嫌悪を催す対象とは近付きたくもないか消えてほしいと願うかのどちらかである。

わざわざ嫌いなものに近付く人間の方が少ないだろう。


だから一握りの人達がいくら頑張ってもこの地球では未だに似た悲劇が繰り返されるのである。